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ストーンヘンジは音の魔術師 [<歴史NEWS>]


 ストーンヘンジがなぜ存在するのか、さまざまな議論がかわされていますが、どうやら、「音波」が原因ではないかという研究が発表されました。
 音波の強弱により、大きく聞こえる場所と小さく消える場所(または音が消える場所)を目に見える形で表現したものがストーンヘンジなのではないかということです。
 ケルト神話にも、二人のバグパイプ奏者の音楽で踊っていた娘たちが石になったという記述があるそうで、娘が音波で、音波が消えた場所が石が建っている場所というようなものではないかとのことです。

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(前略)

 だが、20年にわたって洞窟壁画を研究し、古代遺跡の音響面に深い関心を抱いてきたスティーブン・ウォーラー(Steven Waller)氏は、現代の科学者が音波の効果であると考えている現象が、過去には極めて謎に満ちていたため、ストーンヘンジが建設されたとの説をとなえている。

■音波の干渉がモチーフ

 音波の干渉とは、2人のバグパイプ奏者など2つの音源が、異なる場所で同時に同じ音を出したときなどに発生する現象。聴取者がその周囲を歩くと、音が大きく聞こえたり小さく聞こえたりする場所がある。「大きな音と静かな音の間を変化するのが聞こえる」とウォルター氏は記者団に説明した。

 「(太古の昔には)この現象は非常に謎めいたもので、まったく不可解だっただろう。パイプ奏者が2人いれば、パイプ奏者が1人のときよりも大きな音になると想像しがちだ。だが、周囲を歩いてみると音の大きさは変化し、ほとんど無音になる場所もある」(ウォーラー氏)

 「つまり結果として、目には見えないが、音を遮断する巨大な物体が輪状に存在しているように感じる。そしてこれはストーンヘンジの構造に非常によく似ているという考えが私に浮かんだ」  神話もこの説を補強する。たとえば、2人の魔法使いのパイプ奏者が娘たちを輪になって踊らせたところ、娘たちは全員石になった、という神話がある。

■目隠しをして音を聞く、現れる石のイメージ

 ウォーラー氏はこの説を証明するための実験を行った。被験者に目隠しをしてもらい、野原で2つのバグパイプが奏でられるのと同じ音波の干渉を体験させた。

 「音源とあなたたちの間に何があるかと被験者に尋ねた。すると被験者は、ストーンヘンジと非常によく似た絵を描いた。音波がちょうど打ち消し合う位置に音を遮断する巨大な物体を描いたのだ」

 またウォーラー氏は、ストーンヘンジの中心部に音源を起き、周囲を歩く実験を行った。すると、音波の干渉と同様の音の強弱が聞こえた。

 「音響的なイリュージョンによって生まれた目に見えない石があるというイメージが、ストーンヘンジを作った理由だ」とウォーラー氏は述べ、「そのビジョンを実体化させるために、彼らは実際に神殿を造ったのだ」と結論づけた。

■「遺跡の音の保存を」

 太陽に関連する目的でストーンヘンジが作られたとする説もあるが、ウォーラー氏は自説とこれらの説は相反しないと指摘する。なぜなら、どちらの説も、ストーンヘンジが宇宙の成り立ちを理解しようとするための神聖な場所だったことを示唆しているからだと、ウォーラー氏は述べた。

 またウォーラー氏は、音響面にも注意を払って遺跡を保護し、観光などの目的で太古の洞窟の幅を広げるなどの行為をしないよう呼びかけた。

 「誰も音に注目していなかった。われわれは音を破壊していたのだ」とウォーラー氏。「太古の人々は音波を知らなかった。それは魔法だったのだ。だからこそわれわれは遺跡のサウンドスケープ(音環境)を保存し、研究しなければならない」(c)AFP/Kerry Sheridan

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 音を表現した遺跡というものも不思議な気がしますね。
 太陽信仰だけではなく、昔の人はさまざまなものに神を感じ、それを目に見える形で表現しながら、自然を感じていたのではないかなと思います。
 ストーンヘンジは、古代ローマ帝国が侵略する前のケルト人が作ったとされ、直立している石は紀元前2500年頃、外側の土塁などは紀元前3000年ほど前までさかのぼることができるそうです。
 古代の人が考え、見たきたものは、科学的証明上だけではなく今の人間には想像がつかない何かも感じていたのではないかなと思いました[わーい(嬉しい顔)]



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南極「ボストーク湖」調査開始 [<歴史NEWS>]


 南極の厚い氷の下を掘り進んで、ようやく到達した地底湖ボストーク湖の調査がいよいよ開始します。100万年前のままの姿であろうと予想される地底湖に、未知の生物がいるかどうか、楽しみな人もいるでしょう[るんるん]
 光がなく、高酸素状態の極寒環境で逞しく生き抜く生物か、それともさすがに生物が住むことができない環境だったのか、どちらにしろ、得られるものは大きいようです。

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 約100万年間、氷の下に閉ざされていた南極最大の氷底湖、ボストーク(Vostok)湖の調査で、新たな生命体が見つかるかもしれない――。厚い氷床を深さ4キロ近く掘り進み前週、同湖への到達に成功したロシアの科学チームは、地球の歴史をひもとく発見がもたらされると期待を示している。

 科学者らによると、年内に採取されるボストーク湖の水のサンプルからは、未知の生命体が発見できる可能性がある。ペテルブルク核物理学研究所(Petersburg Nuclear Physics Institute、PNPI)の分子生物学者、セルゲイ・ブラト(Sergei Bulat)氏は9日、AFPの取材に「地球上の生命とは似ても似つかない生命体が見つかるのではないか」と語った。

 仮にボストーク湖で生命が発見されれば、それは光が届かず、高圧で、酸素濃度も非常に高く、しかも水温は零下2度という極限環境に適応した「現代科学においては未知の生命体」ということになると、ブラト氏は指摘する。  一方、逆に生命が全く存在しないことが確認されれば、「それもまた発見だ」と同氏は言う。「なぜなら地球上ではこれまで、無菌の場所というのは発見されたことがないからだ」
 また、サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)にある海洋地質・鉱物資源研究所(Institute of Geology and Mineral Resources)のGerman Leichenkov氏は、湖の堆積物を調べることによって、過去2000万年に及ぶ地球環境と気候の変化を解明することができるだろうと述べている。(c)AFP/Anna Malpas

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 活火山の定義が過去100万年間に噴火活動したか否か、で、それは「若い」火山を意味するそうなので、地球上からみれば100万年という数字は決して古い年代ではないようです。
 100万年前の人類はというと、500万年前に誕生した原人がアフリカから他の地域へと旅に出始めた頃です。78万年前には地磁気が逆転し、60万年前にネアンデルタール人が、50万年前には北京原人が、20万年前に現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンスがアフリカで登場しています。
 7~1万年前に氷河期がありましたが、その前の13万年~は間氷期です。
  




南極近辺に生息するキングペンギンのフィギュアシュライヒ(Schleich) コウテイペンギン(仔) 【楽ギフ_包装】 【05P13Feb12 】



タグ:ロシア 南極

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モナリザの最初期の模写がブラド美術館で発見 [<歴史NEWS>]


 ルーブル美術館が所在しているレオナルド・ダビンチのモナリザ(Mona Lisa)のもっとも古い模写がスペインのブラド美術館で発見されました。
 この『Mona Lisa of the Prado』は、レオナルド・ダビンチのアトリエで模写されたものだそうです。ただし、レオナルド・ダビンチ本人が描いたものではなく、アトリエの誰かが写したもののようです。また、レオナルド・ダビンチのモナリザよりも、明るい色を使っていて若く見えるそうです。

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 スペインのプラド美術館(Prado Museum)は1日、同館が所蔵するレオナルド・ダビンチ(Leonardo da Vinci)の『モナリザ(Mona Lisa)』の模写が、現存する最も初期のものであり、ダビンチ本人のアトリエで制作されたものであると発表した。模写作品のモナリザはより若く、魅力的に見えるという。

 首都マドリード(Madrid)にあるプラド美術館は同日、修復が完了したモナリザの模写『Mona Lisa of the Prado』を報道陣に公開した。この作品は18世紀に背景が黒く塗られたという。なぜ背景が黒く塗られたのかは分かっていない。

 修復作業により黒い絵の具の層が取り除かれた模写作品の背景には、丘や川など、現在フランス・パリ(Paris)のルーブル美術館(Louvre Museum)で展示されている本物のモナリザを思わせる風景が描かれていた。

 この模写作品についてはこれまで、より後の時期に制作されたものと考えられていた。しかし、プラド美術館のイタリア・ルネサンス絵画主任キュレーター、ミゲル・ファロミール(Miguel Falomir)氏は、「恐らく現存する中で最も古いモナリザの模写だろう」と述べ、模写はダビンチ本人のアトリエで本物とほぼ同じ時期に制作されたものだという専門家の分析にも触れた。その一方で、「ダビンチ本人は一切関わっていないだろう」とも語った。
 報道陣に公開された作品に描かれた女性は、本物のモナリザに比べより若く鮮やかな印象を受け、背景の描写もよりみずみずしい。これについて同美術館の副館長のガブリエル・フィナルディ(Gabriele Finaldi)氏は、本物のモナリザの絵は非常に汚れており、「絵画は汚れると描かれている人物が老けて見える傾向がある」とAFPに述べた。

 プラド美術館によるとこの模写作品は、3月26日からルーブル美術館で本物のモナリザと並べて展示される予定。(c)AFP/Roland Lloyd Parry

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 同じ対象を描いているはずなのに、色使い一つ、汚れ一つで、全く印象が変わるようで、絵画って不思議だなと思います[わーい(嬉しい顔)]
 ルーブルの美術館のモナリザも、汚れをすべて落としたら全く別な雰囲気の絵になるのかもしれないなと思いました。
 スペイン語のニュースですが、模写のニュースを折り込みました。『Mona Lisa of the Prado』の絵のアップもあるので、画像だけでも参考になるかなと思います。


>>>>ブラド美術館の模写の



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始祖鳥、羽は黒かった 色素の分析で判明 [<歴史NEWS>]


 始祖鳥は、実は、黒い羽の持ち主だったようです。
 黒い羽が全身を覆っていたか否かはまだわかりませんが、少なくとも、一部の羽の色が黒かったことは確実となりました。
 この羽の化石は、1861年にドイツの石灰岩の層(1億5千万年前のジュラ紀の地層)から発見され、カラスくらいの大きさだったそうです。
 なぜ黒かとわかったというと、メラニン色素を含むメラノソームを調べたことによります。メラノソームによって、髪や羽の色などがわかるそうです。
 また、黒い羽は、ケラチンというタンパク質と結合しやすいメラノソームがたくさん含まれているため、他の色よりも、丈夫で耐久性に優れているのだそうです。

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 長らくすべての鳥の祖先とされ、昨年、羽毛を持つ恐竜の1つに過ぎなかったとする説が提唱された始祖鳥。その翼は黒かったとする論文が、24日付の英オンライン科学誌ネイチャーコミュニケーションズ(Nature Communications)に発表された。

 恐竜に関して、皮膚と羽の色は最大の謎であり、復元図は科学的根拠よりは画家の想像力に大きく委ねられている。

 欧米の研究チームは、始祖鳥の羽の色を調べるため、1861年にドイツで発見された保存状態の極めて良い1億5000万年前の始祖鳥の羽毛化石で、細胞内の色素生成部位であるメラノソームの探索を開始した。

 独光学機器メーカー、カール ・ツァイス(Carl Zeiss)の研究所にある走査型電子顕微鏡で解析したところ、メラノソームを数百個発見。これらを現生鳥類87種のメラノソームと統計的に照合したところ、始祖鳥の羽は95%の確率で黒であることが判明した。

 黒は、カモフラージュとして便利だったか、体を引き立たせたり体温を調節したりするのに役立っていた可能性がある。

 なお、メラノソームの配置と重なり合っている小羽枝は、始祖鳥の羽が現生鳥類の羽よりもはるかに硬く耐久性に優れていたことを示しているという。

 米ブラウン大(Brown University)の進化生物学者、ライアン・カーニー(Ryan Carney)氏は、「始祖鳥が飛行か滑空をしていたと仮定して、メラノソームは羽の構造を補強する役割を果たしていた可能性がある。このことは、恐竜が進化して飛行能力を備える初期段階で、有利に働いたと考えられる」と述べた。(c)AFP

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 図鑑などでは始祖鳥はどちらかというと極彩色の派手な姿で描かれることが多かったように思われますが、これからは、黒い始祖鳥に描きなおされるのだろうなと思います。
 羽も現在の鳥類よりも、硬く耐久性に優れているとのことで、見かけも、華奢というよりもちょっと硬質な雰囲気を持ち合わせていたのかもしれないなと思いました。


 +参照
 ナショナルジオグラフィック:始祖鳥の翼は黒かった(http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20120125001&expand&source=gnews




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王家の谷で古代エジプトの歌姫の墓が発見される [<歴史NEWS>]


  エジプトの王家の谷で、太陽神アモン・ラーに仕える神官の娘で、神に歌を捧げる歌姫でもあったネフメト・バステトの墓が発見されました[わーい(嬉しい顔)]

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 エジプト・ルクソール(Luxor)近郊カルナック(Karnak)の「王家の谷(Valley of the Kings)」で、約3000年前の女性歌手の墓が発見された。モハメド・イブラヒム(Mohammed Ibrahim)文化財担当国務相が15日発表した。

 墓の中から見つかった木製の飾り額によれば、墓は古代エジプト第22王朝時代、太陽神アモン・ラー(Amon Ra)に歌をささげる歌手だったネフメト・バステト(Nehmes Bastet)のもので、スイス・バーゼル大学(Basel University)の考古学チームが偶然発見した。彼女は太陽神をまつる高位神官の娘だったという。

 今回の発見は第22王朝時代、王家の谷に一般の個人や神官らも埋葬されていたことを示しており、非常に重要だという。これまで王家の谷で発見された墓は王家にゆかりの人物のものだけだった。(c)AFP

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 第22王朝(紀元前945年 - 紀元前715年)は、下エジプトのタニスを中心とした第3中間期のリビア人の王朝(ブバスティス)です。
 この第22王朝時代の初代シェションク1世は、ソロモン王死後分裂していたエルサレムやパレスチナへ遠征したりしたりしており、旧約聖書では「シシャク王」と呼ばれている人物と同一人物とみられています。





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塔の形の土製品13点出土 京都・美濃山廃寺 [<歴史NEWS>]


 可愛い形の塔です[わーい(嬉しい顔)]  
 願い事を叶えるために作られた塔の形の土の製品です。

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 7世紀から9世紀まで存続したとされる京都府八幡市の美濃山(みのやま)廃寺で、高さ20センチ前後のひょうたん形土製品が13点出土した。同市教委と府埋蔵文化財調査研究センターが13日発表した。願い事をする塔の一種とみられ、この形の土製品の出土は全国初という。

 新名神高速道路の建設予定地の丘陵地約1万6千平方メートルを調べたところ、寺院の中心施設とみられる掘っ立て柱建物跡(東西約20メートル、南北約10メートル)の南側で見つかった。醍醐寺五重塔(京都市伏見区)など、塔の最上部(相輪)の先端につく宝珠と竜車に似た形で、塔の一種と判断した。

 願い事をかなえるために小さな塔を多数作った例としては、奈良時代後期に称徳天皇が法隆寺など10の寺院に置いた木製の「百万塔」が文献で確認できる最古とされる。平安時代後期には、「泥塔(でいとう)」と呼ばれる土製の塔を多数作ることが流行したという。帝塚山大の森郁夫客員教授(歴史考古学)は「多数の塔を作ることで国家の安穏を願ったのではないか」とみる。

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 泥塔は、粘土で、大日如来の種子である阿字や経文などを書いて中におさめ、減罪や無病息災(長寿)などを祈るための小さな塔です。特に末法の世と騒がれていた平安時代の貴族などは密教系の寺に多数納めていたそうです。
 また、平清盛の娘の建礼門院徳子の安産祈願としても泥塔をおさめていました。
 


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タグ:京都

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ベートーベンの音楽の歴史は彼の難聴の歴史 [<歴史NEWS>]


 ベートーベンが難聴であったことは、ファンの人は知っているかもしれません。その難聴が、彼の音の歴史を生み出していったようです[わーい(嬉しい顔)]
 研究チームは、各曲の第一楽章で奏でる第一バイオリンのG6の音(1568ヘルツ)に着目しました。難聴が進行している間、ベートーベンはこのG6よりだんだん低い音が中心になっていき、中低音、重低音の曲へと音が変化していきました。なぜならば、その音域がベートーベンが聞き取ることができた音域だからです。
 そして、後期、ベートーベンはほとんど耳が聞こえなくなった状態になったとき、再びG6よりも高い音を第一バイオリンが第一楽章で奏でるようになりました。実際に聴覚で聞くのではなく、かつての音のイメージで曲を作り上げていったようです。

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 ドイツの作曲家ベートーベン(Ludwig van Beethoven)が生み出した名曲の数々に、聴力の衰えが深く反映されているというオランダの研究チームによる論文が、20日の英医学誌「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(British Medical Journal、BMJ)」に掲載された。

 ベートーベンが楽器や人の話し声の高音が聞こえづらいと最初に訴えたのは1801年、30歳のときだった。1812年には、ほとんど叫ぶように話さないとベートーベンには聞き取れなくなり、1818年には筆談でのコミュニケーションを始めている。1827年に死去したが、晩年には聴力はほぼ完全に失われていたとみられる。

 ライデン(Leiden)にあるオランダ・メタボロミクスセンター(Netherlands Metabolomics Centr)のエドアルド・サセンティ(Edoardo Saccenti)氏ら3人の研究者は、ベートーベンの作曲活動を初期(1798~1800年)から後期(1824~26年)まで4つの年代に区切り、それぞれの時期に作曲された弦楽四重奏曲を分析した。

 研究チームが着目したのは、各曲の第1楽章で第1バイオリンのパートが奏でる「G6」より高い音の数だ。「G6」は、周波数では1568ヘルツに相当する。

 難聴の進行とともに、G6音よりも高音域の音符の使用は減っていた。そしてこれを補うかのように、中音域や低音域の音が増えていた。これらの音域は、実際に曲が演奏されたときにベートーベンが聞き取りやすかった音域帯だ。

 ところが、ベートーベンが完全に聴力を失った晩年に作られた曲では、高音域が復活している。これは、内耳(骨伝道)でしか音を聞けなくなったベートーベンが作曲の際、演奏された音に頼ることをやめ、かつての作曲経験や自身の内側にある音楽世界に回帰していったためだと、研究は推測している。(c)AFP

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 強く低音で響くあの音は自分の聞き取れる音から作り上げ、そして最後には彼の思い出の中にあった音から作り上げられた曲の数々の歴史は、ベートーベンの音の歴史であり、人生そのものを聞いているのかもしれないなと思いました。
  









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尾形光琳の紅白梅図屏風、製作当時は銀波の絢爛さも [<歴史NEWS>]


 尾形光琳の紅白梅図屏風の当時の姿をCGで再生したそうです[わーい(嬉しい顔)]
 背景は金泥ではなく金箔で、川の流れは銀箔を硫黄を使って黒色に変色させたものを使い流水模様を作ったそうです。銀箔の厚さは0.12マイクロメートルです。
 歴史や美術の教科書などで一度は目にしたことがある人が多いかもしれません。今の姿のままでも、どことなかく華やかさがありますが、江戸時代、尾形光琳が描いた姿は、さらに豪華絢爛で、さすがは琳派と言えるものではないでしょうか[グッド(上向き矢印)]
 現在、紅白梅図屏風は、静岡県熱海市のMOA美術館が所蔵しています。

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 江戸時代の画家、尾形光琳(こうりん)(1658~1716)が描き、「琳派」を代表する作品「紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)」(国宝)の制作当時の姿がコンピューター・グラフィックス(CG)で再現された。金地を背景に、黒い川面に銀色の波が立つ様子が鮮やかによみがえった。所蔵するMOA美術館(静岡県熱海市)で16日に開かれた研究会で発表された。

 「紅白梅図屏風」をめぐっては、科学調査が続いていた。東京理科大学の中井泉教授(分析化学)らが結晶の状態などを分析し、昨年、背景は金箔(きんぱく)と発表。今回、川の部分を銀箔と結論づけた。さらに川の黒い部分は、銀箔を変色させた硫化銀と確認。それらの調査結果をもとに、CG画像はつくられた。(西岡一正)

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 尾形光琳は江戸時代中期(17世紀後半から18世紀)の絵師で、俵屋宗達に師事し、伝統的な大和絵の中に革新的な画法を取り入れ、狩野派とはまた違った雰囲気をもつ様式をもっていると言われています。「紅白梅図屏風」の他にも「八橋図」、「燕子花図屏風」、などの屏風絵や扇面、小袖、蒔絵、水墨画までといろいろな作品を残しています。弟は陶器で有名な乾山です。

 MOA美術館(http://www.moaart.or.jp/index.php
 MOA美術館の「紅白梅図屏風」(http://www.moaart.or.jp/owned.php?id=820





光琳デザイン



尾形光琳筆 国宝紅白梅図屏風



タグ:日本 静岡

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古代の人工池「磐余(いわれ)池」の遺構が奈良・橿原に [<歴史NEWS>]


 古事記や日本書紀に記載がある古代の人工池「磐余(いわれ)池」は長年、どこにあるのか不明でしたが、奈良県橿原市東池尻町で、その池の遺跡ではないかと思われる場所が発掘されました[わーい(嬉しい顔)]
 この人工池は、谷川の水を堤でせき止めるようにして作った日本最古のダム式のため池だといわれています。手のひらのような形をしていて、池の推定面積は約8万7500平方メートルもあり、平安時代頃まではあったのではないかと推測されています。
 池に平行するように堤の跡も見つかったため、堤の上から池を眺めていた可能性があるそうです。
 また堤の上には大型の建物の跡もあり、そこは用明天皇が6世紀に建てた池辺双槻宮(いけのべのなみつきのみや)ではないかとも言われています。用明天皇は、聖徳太子の父親です。

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 「日本書紀」や「万葉集」に登場する古代の人工池「磐余(いわれ)池」の推定地とされる奈良県橿原市東池尻町で、池の堤とみられる跡が見つかった、と市教委が15日発表した。これまで所在地が不明だった「幻」の池の可能性がある遺構が確認されたのは初めて。

 調査地は周辺の水田より2メートルほど高い細長い丘陵地。市道拡幅工事に伴い、南北81メートル、東西2~7メートルを発掘したところ、厚さ約1.4メートルの土を盛って斜面を整えた跡が見つかった。堤の外側とみられる。市教委は谷の出口を塞ぐように堤が築かれ、池の範囲が東西約700メートル、南北約600メートルだったと推定している。

 さらに、堤の上で南北17.5メートル以上、東西4メートルの掘っ立て柱建物跡が出土。一緒に出た土器から、6世紀後半ごろに建てられたとみられる。堤と並行して築かれており、池を眺める用途だった可能性が高い。

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 ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
 686年に謀反の罪で自害した天武天皇の皇子である大津皇子の辞世の句にも詠まれた場所でもあります。
 天香具山に近い磐余池は5世紀に履中天皇の時代に作られ、その後、船を浮かべたりして、舟遊びを楽しんだりしたようです。
 また、磐余の地では、神功皇后や履中・継体天皇の宮殿があったとされ、古代の天皇家にとって、重要な地であったとも言えます。




古事記と日本書紀 (図解雑学)



タグ:日本 奈良 歴史

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東大寺境内から大規模な僧坊跡 焼失した痕跡も出土 [<歴史NEWS>]


 室町末期から戦国時代にかけての、東大寺が戦乱に巻き込まれた際の遺構が見つかりました。
 東大寺は、平安末期の平家の南都焼き討ち(1108年)で焼失し、鎌倉時代に焼失していますが、その鎌倉時代に再建されたものも、1508年の出火や1567年の「三好・松永の乱」により焼失しています。その際の焼失の遺構が今回発見されたもののようです。

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 奈良・東大寺の境内で、16世紀に存在した大規模な僧坊の遺構が見つかった。奈良市埋蔵文化財調査センターが5日発表した。この時代、寺は戦国の争乱に巻き込まれてほぼ焼失したとされ、「受難」の歴史を裏付ける遺物も確認された。

 大仏殿の裏手を東西約135メートル、幅約1.5メートルにわたって発掘。その東端で、直径約130~140センチの礎石3基が東西に3.9メートル間隔で並んでいるのが確認された。平安末期の1180年に平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き打ちで寺が焼かれた後、鎌倉時代に再建された僧坊の遺構の可能性が高い。

 僧坊は1508年、原因不明の火災で焼失したとされる。礎石の間にこの時期の焼土層(約5~15センチ)が残っていた。さらに、焼土層の上で、大仏殿の焼けた瓦など炭混じりのがれき層(約5~30センチ)が出土。畿内の主導権争いで1567年、戦国武将の松永久秀が大仏殿に本陣を置いた三好三人衆を奇襲し、その兵火で大仏の頭も焼け落ちた「三好・松永の乱」によるものとみられる。

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 もしかしたら新しい発見もあるかもしれませんね[わーい(嬉しい顔)] 
 昔は、どんな姿だったのか、どこにあったかなどを考えていくと面白いかもしれないなと思います。





もっと知りたい東大寺の歴史 (アート・ビギナーズ・コレクション)




東大寺 (別冊太陽 日本のこころ)






タグ:奈良 東大寺

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